ホーム > 学問のススメ

学問のススメ

最終更新日:2013年10月02日

 學問のススメ

學(学) 問のススメは、原則的にそれぞれ独立した内容で、17冊の分冊です。
1872年(明治5年2月)に初編が出版され、1876年(明治9年11月25日)に17編を
出版して完成しています。

初編は福澤諭吉(現在では福沢諭吉と表記されているのが一般的)と小幡篤次郎の共著でした。2人はともに豊前国(大分県)中津藩士でした。この小幡氏は甘楽町に本拠地の
城、「国峯城」を築城した小幡氏の子孫です。

 

 学問のススメの初編

 初編の表紙で本の大きさは縦18cm、横12.7cmです。
1872年(明治5年2月)に出版されました。

 

 131002-1.JPG

 

 

表紙の拡大

拡大して見ますと、福澤諭吉・小幡篤次郎同著となっています。
残りの16冊は福澤諭吉著となり、初編のみ小幡篤次郎の名前が見られます。 

 131002-2.JPG

 

 

天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ・・

 福澤諭吉と言えば、一万円札と「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下に人を造ラズト
云ヘリ」 が有名ですが、この言葉は福澤諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国の
独立宣言からの引用と云われます。

 131002-3.JPG

 

 

拡大した同著者の名前

福澤諭吉・小幡篤次郎 同著とあります。
この小幡氏は、当町国峰にありました「国峯城」の城主でありました小幡氏の
子孫です。 本家の家紋は軍配の中に竹笹が上段に7枚、中段に5枚、下段に3枚ある
「七五三笹軍配紋」ですが、中津藩の小幡氏は「三三三笹軍配紋」 です。

 131002-4.JPG

 

 

2ページ目

 「今広く人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきも
あり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違ある
に以たるは何ぞや」  と最初の行から3行目に書かれています。
 要は、人は生まれながら貴賎上下の差別はありませんが、学問をよく勉強して、
物事を知る人は貴人となり富人となります。勉強しない無学な人は貧人となりま
す。つまり、学問の有無が人生に与える影響を説いた書です。
 この当時の日本国民の行くべき道を指し示した書なので、『学問のススメ』なの
です。

 131002-5.JPG

 

 

小幡篤次郎(おばた とくじろう)

小幡篤次郎{1842年(天保13)~1905年(明治38)}は、中津藩家老・小幡氏
の中津藩士(大分県)で、甘楽町に居住した豪族小幡氏の小幡上総介信真の次女が
嫁した武田家臣高田兵庫頭の子孫です。
 明治時代は政治家(貴族院議員)・教育者・思想家として活躍しています。
 1864年(元治元年) 福澤諭吉の勧めで江戸に出ます。1876年(明治9年)
ヨーロッパやアメリカを歴遊し、1890年(明治23)慶応義塾長となり、同年
学識者として貴族院議員に推されています。後に慶応義塾では福澤に次ぐ中心
人物となっています。

 131002-6.JPG

 

 

 はしがき

端書の中に書かれていますように、故郷中津に学校を開設するのにあたり、
学問の趣意を記したのがこの『学問のススメ』でした。「慶応義塾の活字版
で印刷し同志の一覧に供するなり」と結んでいます。

 131002-7.JPG

 

 

中津市立小幡記念図書館

小幡篤次郎は晩年、蔵書の半分を旧宅地とともに故郷の中津に寄附し、図書館を
設立するように指示しています(蔵書の残り半分は慶応義塾に寄附)。これが
現在の中津市立小幡記念図書館のもととなっています。

『学問のススメ』は、当時としては分かり易い文章で書かれており、小学校の
教科書にも用いられました。“読み書き・計算・基本的道徳”など、生活に即した
学問を身につけることが肝要だと書かれています。

 甘楽町歴史民俗資料館に、初編・2・3・4・5・6・7・8・13編の9編が展示
されていますので、ご覧賜れば幸いです。 

 131002-8.JPG

 

このページへのお問い合わせ

教育課 文化財保護係
住所:〒370-2292 群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡161-1
電話:0274-64-8324
ファクス:0274-74-5813