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甘楽町の歴史をたどる

最終更新日:2013年02月28日

小幡氏まで

甘楽町の遺跡・遺構は旧石器時代から確認されている。
平安時代の『延喜式』には上野国の御牧の一つである「新屋の牧」が開設されたとあり、当町の新屋地区内であると想定されている。

鎌倉時代にはいると、小幡氏の活躍がみられる。小幡氏は、武蔵七党系図によると児玉党の一派で、この党の中に小幡平太郎の名が見られ、13世紀初頭には小幡の地に居住し、勢力を確立していたと推考されている。

南北朝時代以降になると、上杉氏が上野国守護となりその支配力が強固になると、西上野の拠点の一つとして甘楽の地が重要視されてきた。
各所に城が築城され、本町には白倉城、国峯城、庭谷城、天引城などがある。特に白倉城は、麻場城・仁井屋城の2城からなる典型的な別城一郭といわれ、城主の白倉氏は、小幡氏と並んで関東管領上杉氏の重鎮として上州八家の一つ、また四宿老(長尾、大石、小幡、白倉)の一人として活躍した。

小幡氏は西上州において大きな役割や影響を及ぼした。居城の国峯城は中世における大城郭で、他には見られない特異な構成であり、山城部・丘城部・平城部が、東西2km、南北2.5kmの広範囲に展開しており、高低差は244mをはかる。のち、武田信玄の幕下に加わり、武田軍団の先陣として武勇をはせ「朱備え」着用を許され、上州の朱武者として恐れられたといわれ、武田24将の一人にも数えられた。

武田氏滅亡後は織田信長配下の滝川一益に従い、本能寺の変以後は小田原北条氏の勢力下に入ったが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めに際して、国峯城も前田利家隊などの秀吉軍により落城した。甘楽の地を徳川家康に明け渡し、真田氏をたよって信州へ去っている。

織田氏~松平氏

天正18年(1590)から慶長6年(1601)までの11年間は、小幡領2万石として奥平信昌が領主となり、国峯城の枝城であった宮崎城(現富岡市)に入った。奥平氏は甘楽郡奥平郷(現吉井町)出身で、徳川家康に属して長篠の戦で武功をあげ、家康の長女亀姫を夫人とした。

慶長6年(1601)から慶長7年(1602)の1年間は、奥平信昌の四男で徳川家康の養子となった松平忠明が領主となった。
慶長7年(1602)から元和元年(1615)までの13年間は、水野忠清が小幡1万石を領した。この間の慶長15年(1610)から元和元年(1615)までの5年間は、箕輪城12万石の領主井伊直政の二男直孝が、福島に陣屋を築き甘楽郡東部の地1万石を支配した。
元和2年(1616)永井直勝が小幡1万石を加賜されている。
このように小幡の地は、この25年間で5度領主が入れ替わっている。

元和元年(1615)7月、京都の二条城で「禁中並公家諸法度」布達の際に、織田信長の二男信雄に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が与えられ、翌元和2年(1616)に信雄の子信良が福島の御殿に入り、織田氏による小幡支配が開始された。

2代信良は寛永3年(1626)43歳で死去した。嫡男信昌が2歳で相続したが、信雄の命により、信雄の四男織田出雲守高長が後見役となった。

3代信昌は寛永6年(1629)に福島から小幡への移転を決め、場所見立て、地割・御用水割・水道見立てを行い、13年後の寛永19年(1642)に普請を完了して小幡陣屋に移転し、小幡陣屋は小幡藩の中心となった。陣屋屋敷に南面して楽山園と呼ばれる庭園が造営された。
楽山園の造営年代・造営主については不明な点が多いが、『楽山園由来記』では元和7年(1621)に織田信雄が造営したと伝えられている。この由来記が正しいとすれば、最初に信雄によって作庭が行われ、お茶屋が営まれた後、藩邸として再構成された可能性がある。庭園の構成から考えると、藩邸ができる前から、庭とともに別荘的な建物が存在したと考えられる。
また、藩邸造営時に庭園が造られた可能性も否定できない。この場合、3代信昌の後見人である高長の存在が大きかったものと考えられ、その差配のもと、庭園が造られたと考えられる。

8代信邦治世の明和3年(1766)に藩政立て直しをめぐって重臣間で内紛が勃発した。幕府の表沙汰となり、小幡藩主名代や『柳子新論』で幕政を批判した山県大弐など小幡藩と係りがあった多数の者が処罰された明和事件が起こった。翌明和4年(1767)に信邦は蟄居となり、信邦の弟信浮は養子として認められ、出羽高畠2万石を与えられ移封となった。織田氏は8代152年にわたり小幡藩を統治した。
織田家移封の後、明和4年(1767)9月に小幡2万石に封ぜられたのは、奥平家とも縁続きの親藩で、陸奥・上野・伊豆の約2万5千石を領し、若年寄を勤めていた松平忠恒である。

3代忠恵は、50年にわたり藩主や幕府の奏者番・若年寄の要職を勤めた功績により嘉永3年(1850)に「城主格」を拝命し、以後小幡陣屋は「小幡城」と呼ばれた。

4代忠恕は、小幡藩最後の藩主。明治2年(1869)版籍奉還するまで続いた。

明治以降~甘楽町の成立

慶応3年(1867)に大政奉還が行われ、翌年には旧幕府直轄領と旗本領は岩鼻県となった。

明治2年(1869)3月に版籍奉還が行われ、藩主の松平忠恕は小幡藩知事に任命された。
明治4年(1871)廃藩置県の詔が下ると、岩鼻県も含め第1次群馬県が設置された。
明治6年(1873)6月、第1次群馬県と旧川越藩の入間県とで熊谷県となった。同年に小幡陣屋の土地・建造物・立木などが払い下げられている。
昭和54年(1979)刊行の『甘楽町史』には、旧県庁一式・糺問所一式・土蔵3棟・撃剣場一式・旧学校建家一式・元厩建家一式・官舎4棟・元番所3棟・門5箇所・囚獄建物一式などがあり、内訳として畳・障子・襖などの建具とこれらの代金が記されている。

明治9年(1876)8月に入間県が除かれ、旧館林藩の栃木県とで現在の群馬県が成立した。
明治22年(1889)町村制施行で、小幡町・秋畑村・福島町・新屋村が成立した。
昭和28年(1953)9月、町村合併促進法の施行に伴い、昭和30年(1955)小幡町と秋畑村が合併し、昭和34年(1959)2月に小幡町・福島町(一部富岡市に合併)・新屋村が合併し、現在の甘楽町が誕生した。 

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